イラストの水戸芸術館は1990年に竣工で、バブル期に磯崎新に設計された建築です。
マネーゲームによって地価の暴騰がおこり、建てられたものの消えていった建築も多くあったバブル期ですが、この水戸芸術館はJIA25年賞という25年以上の長きにわたり、建築の存在価値を発揮し、美しく維持され、地域社会に貢献してきた建築物に対して与えられる賞を2015年に授与するほど、現在も生き生きとしている建築物です。
それはチタンや上質な石など現在では高価なため建築では使われないような素材を、バブル期ならではの投資によって使われこともあります。
しかし、それと同時に磯崎新はバブル期の中で、今後長く使われる建築を徹底的に考えた、磯崎なりの答えの一つとして出したのが水戸芸術館でもあったからです。
【1】
1990年とその少し前から、東京は最も世界に注目を浴びている都市でした。しかし、それは東京という都市自体が持ち合わせている魅力というよりも、東京という情報が持っている魅力が集積して作られたものでした。
観光地に住んでいる人は、周りの人にとっては観光地の近くに住んでいて羨ましいものの、住人はその観光地の良さをあまり実感していないのと同じように(あるいはそれを更に過剰に)、東京も東京自体に住んでいる人にとってはあまり実感が薄いものの、東京に対する情報を写真やメディアなどによって得た人にとっては最も魅力のある都市でした。
そして磯崎は、都市自体の実感と都市の情報による羨望の乖離が最も強いカタチで1990年の東京で起こっていると指摘し、それは現実と虚構の“転倒”であると指摘しました。
その“転倒”の様を磯崎は、1990年に篠山紀信が出した「Tokyo Nude」という写真集によって表現されていると論じています(実際この写真集は磯崎も企画に関わっています)。
【2】
その“転倒”の原因は、表層的にはバブル期の移り変わりの激しさやメディアの発達による情報の増大などがあげられますが、深いところではその時代に流行った「ポストモダン」が答えてくれると磯崎は考えていました。
「ポストモダン」は定義の仕方は色々あると思いますが、建築物のように構築された論理(※建築はもともと論理によって作られていたのだが、近代になり建築をメタファーとして論理が作られるようになった)によって作られた近代の終焉としています。つまり、建物のようにさまざまな考えをパーツとして構築された体系によって作られたのが“近代”で、その構築された体系に限界が来たため新しい方法を模索したのがポストモダン(脱近代)なのです。
そして、磯崎は近代を乗り越えるために、建築史を問い直し、篠山紀信と『建築行脚』というさまざまな世界の建築を写真で納め、更に言葉で分析するという連載を行いました。
【3】
ただ、この東京の現実と虚構の“転倒”とポストモダンの関係は分かりづらいのですが、おそらく現実と虚構の転倒が起こったのは、近代の限界による歪みが表層化したと考えるとよいのだと思います。
そして、磯崎は建築史を問い直す中で新しい基準として「デミウルゴモルフィスム」というのを提案しています。ただ、この考えは1990年代半ばに磯崎が具体化し定義していくもので、この1990年の水戸芸術館のときには、様々な手法の引用によって新しい作用が起こった空間の構築という程度に考えていけばよいのだと思います。
この考えは1983年のつくばセンタービルのころから見られますが、バブル期と世界の注目の都市・東京を経ることによって、より綿密に理論を構築し、新しい時代に向けての提案という喚起という意図が強くなった建築物だと思います。
その強い思いが今も生き生きとした建築として水戸芸術館が存在してる所以なのではないでしょうか。
※『<建築>という基体―デミウルゴモルフィスム 磯崎新建築論集4』岩波書店を中心に参考にして執筆しました。 動画の建物の解説は、この著作とhttps://www.city.mito.lg.jp/citysales/citysales/p016126_d/fil/mitonote_04_P30_P34.pdfを参考にしています。